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東京地方裁判所 平成6年(ワ)4102号 判決 1996年12月25日

原告

甲野花子

右訴訟代理人弁護士

角田由紀子

鈴木理子

右訴訟復代理人弁護士

林陽子

被告

乙山太郎

株式会社A

右代表者代表取締役

丙川次郎

右二名訴訟代理人弁護士

森壽男

主文

一  被告らは原告に対し各自一四八万五〇〇〇円を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを二分し、その一を原告の負担とし、その余を被告らの連帯負担とする。

四  この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。

事実及び理由

第一請求

被告らは原告に対し、各自七一三万円を支払え。

第二事案の概要

本件は、原告が、被告株式会社Aの前身である有限会社B及び被告株式会社A(以下、両者共に「被告会社」という。)の従業員であったときに、被告会社会長である被告乙山太郎(以下「被告乙山」という。)が、原告の上司としての地位を悪用していわゆるセクシャル・ハラスメントをなし、原告の性的自己決定権を侵害して精神的苦痛を与えると共に、原告の職場での活動を不可能ならしめ、原告を退職に追いやったとし、被告乙山に対し不法行為に基づく損害賠償を、被告会社に対し使用者責任及び債務不履行責任に基づく損害賠償を、それぞれ求めた事案である。

一  争いのない事実

1  被告会社は、広告代理業等を目的とする株式会社である。

2  原告は、昭和三六年三月二一日生まれの、離婚経験を有する女性であり、平成三年一一月一八日、被告会社に入社した。原告は、入社当初は、営業主任の専属として就労し、平成四年一〇月からは営業部主任となり、同部所の仕事に携わると共にシステム部の手伝いも行い、また平成五年四月からはシステム部主任となり、同部所の仕事に携わると共に、営業部の手伝いも行っていた。

3  被告乙山は、平成三年一二月一日付けで被告会社に入社し、その後、被告会社の会長(取締役)に就任した。被告乙山は、被告会社の営業全体にわたる指揮監督者で、原告の直接の上司であり、原告が、伝票、個人別売上グラフ関係について、直接、報告したり承認を得たりする相手であった。

4  原告は、平成五年一月八日、腸炎で某病院(以下「病院」という。)に入院した。被告乙山は、同月一四日、病院に原告を見舞いに行き、その際、原告に対しキスをした。

5  原告は、退院後の平成五年一月二三日、検査のため病院に行った。被告乙山は、原告に会うために病院を訪れ、その待合室において原告と会った。その後、原告及び被告乙山は、同被告の運転する車で葛西臨海公園へ行き、ドライブインにおいて飲食した。

6  被告会社は、業務の一環として、平成五年五月一三日から三泊四日の日程で富士宮市で従業員を対象とした管理者養成研修を実施し、原告もこれに参加したが、原告は、被告会社に連絡しないまま、二日目に帰宅した。被告会社は、原告の自宅に電話を入れて連絡をとろうとしたものの、原告が被告会社に虚偽の電話番号を届けていたために連絡がとれなかった。

7  被告会社は、原告に対し、管理者養成研修の無断離脱及び電話番号の虚偽の申告等を理由に処分することを考えた。

8  原告は、被告乙山からセクシャル・ハラスメントを受けていること及び被告会社から処分を受けそうであることの悩みについて相談するため東京都品川労政事務所(以下「労政」という。)に相談に行き、斡旋を依頼し、労働相談係長の青山栄子の仲介により、原告及び被告らは問題解決に向けて話し合いを行うこととなった。そして、協定書作成作業が進められていたが、被告乙山による謝罪文の提出を原告が希望したのに対し、被告乙山がこれを拒絶したため、協定書作成に至らなかった。

9  原告は、平成五年五月一四日以降、被告会社に出社せず、同月三一日付けで、被告会社を退職した。

10  被告会社は、原告に対し、平成五年五月二五日、五月分賃金として二一万九三五七円、同年六月一七日、賞与相当分として一七万一〇〇〇円を支払い、また同月二五日、一四万五〇〇〇円を支払い、原告はこれらを受領した。

二  争点

1  被告乙山が原告に対し、原告の性的自己決定権を侵害するいかなる行為を行ったか。

2  被告乙山の責任

3  被告会社の責任

4  原告が被告会社に対する損害賠償請求権を放棄したか否か。

5  原告の損害

三  当事者の主張

1  争点1について

(原告)

(一) 被告乙山は、平成四年四月ころから、原告が退職するまでの間、勤務時間中、業務報告をする原告に対し、「ふたりで食事に行こう。」「一緒に温泉に行こう。」「あなたには面倒を見る人が必要だ。」「私は好きな人にはのめり込む。」等と述べた。

(二) また、被告乙山は、前記一4のとおり、入院中の原告を見舞いに訪れた際、原告にキスをした上、パジャマの下に手を入れて乳房に触り、性器に触れようとするなどの猥褻行為を行った。

(三) さらに、被告乙山は、前記一5のとおり、退院後の原告をドライブに誘った上、ドライブインで強引にキスをした。

(被告ら)

被告乙山は、前記一4のとおり、入院中の原告を見舞いに訪れた際、原告にキスをしたこと以外には、セクシャル・ハラスメントに類する言動は一切していない。

2  争点2について

(原告)

被告乙山は、違法に原告の性的自己決定権を侵害し、それにより原告に対し、無形の損害を与えたのであるから、民法七〇九条の不法行為責任を負う。

(被告ら)

(一) 被告乙山は、前記一4のとおり、入院中の原告を見舞いに訪れた際、原告にキスをしたが、その場の雰囲気や成り行きで何となくキスをしたものに過ぎず、セクシャル・ハラスメントといえるものではなく、不法行為を構成しない。

(二) 仮に、職場において多少エッチぽい会話があったとしても、それは通常の良好な職場の環境の雰囲気である。それらの言動を一々セクシャル・ハラスメントとして扱うのでは、職場の雰囲気はぎすぎすしたものとなり、社員同志の情というものが失われた寂しい職場となる。

3  争点3について

(原告)

被告会社は以下の責任を負う。

(一) 被告乙山は、本件で問題となっている原告への加害行為がなされた当時、被告会社の使用人兼務取締役であった。したがって、被告会社は、被告乙山の不法行為について、使用者責任(民法七一五条)を負う。

(二) 被告会社は、雇用契約を結んでいた原告に対し、契約上安全配慮義務と同様のセクシャル・ハラスメント防止義務を負っているところ、この義務に違反したのであるから、債務不履行責任(民法四一五条)を負う。

(被告会社)

(一) 被告乙山の病院における行為は一個人の問題であり、被告会社には何ら法的責任がない。

(二) また、被告会社は、被告乙山の選任及びその事業の監督につき相当の注意を払った。

4  争点4について

(被告会社)

被告会社は、労政の仲介により、原告に対し、賃金、慰藉料等合計五三万五三七〇円を支払ったが、右支払いをもって原告は被告会社に対する損害賠償請求権を放棄した。

(原告)

原告は、被告会社に対する損害賠償請求権を放棄していない。

5  争点5について

(原告)

原告は、六〇〇万円を下らぬ精神的損害を受けた。また、原告は被告らの不誠実な対応により、本件訴訟提起を余儀なくされ、弁護士費用として、原告代理人らに対し、一一三万円の支払いを約束した。

(被告ら)

被告会社は、被告乙山に何らかの処分をして欲しいとの青山を通じての原告の希望を受け入れ、平成五年七月九日、取締役会を開き、被告乙山の病院における原告の行為に対し、夏季賞与につき一五パーセントカット及び同年七月から三か月間にわたり、賃金の一〇パーセントをカットする処分を行った。したがって、原告の精神的苦痛は緩和された。

第三当裁判所の判断

一  当事者等について

(証拠略)、原告、被告乙山太郎及び被告代表者各本人尋問の結果、弁論の全趣旨及び前記争いのない事実を総合すれば、以下の事実を認めることができる。

1  被告会社は、有限会社Bを、平成四年六月一六日に組織変更して設立された広告代理業等を目的とする株式会社であり、原告在職中は、右組織変更の前後を通じ、Kが代表者の立場にあった(Kを、右組織変更の前後を通じ、以下「K社長」という。)。被告会社における従業員数は、平成三年一二月ころは一五ないし一六名、平成五年ころは二六ないし二七名程度であった。

2  原告は、昭和三六年三月二一日生まれの女性で、離婚経験があり、子供がいる。原告は、平成三年一一月一八日、被告会社に入社、子供を故郷の実家に預け、単身で生活していた。

原告は、入社当初は、営業主任の専属として就労し、平成四年一〇月からは営業部主任となり、同部所の仕事に携わると共にシステム部の手伝いも行い、また平成五年四月からはシステム部主任となり、同部所の仕事に携わると共に、営業部の手伝いも行っていた。

3  被告乙山は、昭和八年一月七日生まれの妻子ある男性である。

被告乙山は、大阪に所在するD信用組合に三〇年ほど勤務し、同組合本店の営業部長の地位で退職した。被告乙山とK社長とは、一五、六年来の付き合いのある仲であり、被告乙山は、手腕を買われ、経営及び営業の仕方をK社長に指導するため、平成三年一二月一日付けで被告会社に取締役相談役として入社し(登記簿上は、平成四年一一月二〇日付けで取締役就任とされている。)、平成四年四月から、代表権のない会長となった。被告乙山は、単身赴任であった。

4  原告と被告乙山の就労場所は、Uビルという同じ建物の同じフロアであった。同フロアは、ロッカーで半分ほど仕切ることにより、従業員部分と役員部分とに分けられ、役員部分に、K社長及び被告乙山の机が並んで設置されていた(右役員部分を、以下「役員室」という。)。K社長は、しばしば席を外すことがあり、また、従業員がいる部屋から、役員室の被告乙山の机のある場所を見通すことは困難な位置関係にあった。被告乙山は、被告会社の営業全体にわたる指揮監督者で、原告の直接の上司であり、原告が、伝票、個人別売上グラフ関係について、直接、報告したり承認を得たりする相手であった。

二  被告乙山の言動について(争点1)

(一)  (証拠略)、原告及び被告乙山各本人尋問の結果(但し、被告乙山本人尋問の結果については、後記認定に反する部分を除く。)並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実を認めることができる(なお、認定の基礎となった<証拠略>及び原告本人尋問の結果は、供述に具体性があり、事柄の経緯についての説明が自然であり、内容もほぼ一環(ママ)していることから、信用性があると認める。)。

(1) 被告乙山の原告に対する日常的な言動の内容

被告乙山は、平成四年四月ころから、原告が役員室に業務報告に行く度、原告を食事に誘ったり、原告に対し、「若い男の人ならば体の関係ばかりだろうけれども、ある程度の年がいった人とか、役職を持っている人ならば、体だけじゃなくて週一回の食事と月一回のそういう関係だけでも生活の援助をしてくれる。」との趣旨のことや、「私は、好きな人にはのめり込むんだよ。」といった話を連日のように行うようになった。また、被告乙山は、平成五年一月末、原告に対し、「二月の、台湾の慰安旅行は、具合が悪いんだったら無理して行く必要はない。そのときは、私も行かないから一緒に温泉でも行ってゆっくりしよう。」と述べた。被告乙山の原告に対するこのような言動は、平成五年四月ころまで行われた。

(2) 平成五年一月一四日、原告を見舞いに行った際の被告乙山の言動

平成五年一月八日、原告は腸炎を患い、病院に入院した。病室は個室であった。平成五年一月一四日、午後一時三〇分過ぎころ、被告乙山が、原告の入院先に一人で見舞いに訪れた。被告乙山は、原告に対し、営業担当の被告従業員二名を、成績不振や、相当額の未収金を出したことについて怒鳴ってきたと話し、原告は、「乙山さん、興奮していますね。」と述べ、営業事務に詳しかったことから、右二名の従業員の件につき、被告乙山の質問に答えたり、説明するなどして、一時間ほど話しをした。その後、被告乙山は「帰る。」と言って立ち上がると、ベッドに仰向けに寝ていた原告の顔を両手で押さえてキスをし、パジャマの内側に左手を入れて乳房を触り、さらに下半身の方にも手を入れ、性器に触ろうとした。原告が顔を横に向け、手を払いのけると、被告乙山は、手を引っ込めた。被告乙山は、「病院代はあるか。」と尋ね、原告が「あります。」と答えた後、被告乙山は帰って行った。

(3) 原告とドライブをした平成五年一月二三日の被告乙山の言動

原告は、退院し、平成五年一月二二日、被告会社において就労していたところ、被告乙山の呼出しで役員室へ行くと、同被告からドライブに行こうと誘われた。原告は、検査のために病院に行くことを理由に断った。

原告は、翌二三日、午前一一時過ぎ、病院へ行き、検査を終えて帰宅する際、待合室の入口で原告を待っていた被告乙山に会った。被告乙山は、「ドライブに行こう。」と言って原告を誘い、原告が体調が悪いことを理由に断ると、「せっかくきたのだから、喫茶店でお茶一杯でいいから付き合ってくれ。」と言って原告を誘った。原告は、被告乙山と喫茶店へ行き、午後二時頃まで過ごした。そして、原告が「帰ります。」と言って帰ろうとした際、被告乙山は、「送るから。」と言って、車に乗るよう誘ったので、原告がこれに応じて車に乗ったところ、車を原告の自宅の方向とは違う方向へ進行させたため、原告がそれを指摘すると、被告乙山は「少しだけドライブに付き合ってくれ。」と言って車を葛西臨海公園に向けて走らせた。原告は体の具合が悪いことを訴えたが、被告乙山は、「椅子を倒して横になっていれば大丈夫だ。」と言うのみで、ドライブを中止しようとはしなかった。午後三時半過ぎころ葛西臨海公園の入口に到着した。原告と被告乙山は、同被告の希望で海を見るために車を降りて歩き出したが、天候が悪く、途中で降り出したことから、午後四時ころドライブインに入り、飲食して休憩した。三〇分程度たった後、帰ることとして駐車場に止めていた車に戻り、原告が少し座席のシートを倒して座っていると、被告乙山は、運転席から上半身を乗り出し、原告に覆い被さるようにして、原告の唇にキスをした。原告は被告乙山を払いのけ、「人が来ます。」と言って顔を背け、ハンカチで口を拭いた。二人はその後、帰路につき、走行仲、被告乙山は、原告に対し、「ホテルに行こう。ホテルに行っても何もしない。ただ一緒に横になってくれるだけでいいから。」などと述べて、原告をホテルに誘ったが、原告は、「六時までに帰らないと、ストーブに入れる灯油が買えなくなってしまう。」と言って断った。原告は、自宅の手前で車を止めてもらい降車し、帰ろうとすると、被告乙山は、「トイレを貸して欲しい。」と言って車を降りようとしたため、原告は近くの公園を教え、「トイレだったら、そこのを使って下さい。」と述べて断り、午後六時ころ、被告乙山と分かれた。

(二)  本件においては、以上の認定に反する趣旨の(証拠略)(いずれも被告乙山の陳述書)及び被告乙山本人尋問の結果が存在するので、右の証拠の信用性について検討しておく。

(1) 右各証拠の内容は、概ね以下のとおりである。

<1> 被告乙山は、勤務中に内線電話で原告を役員室に呼び出し、原告に対し、一緒に旅行に行こうとか、ホテルに行こうと誘ったことは一度もない。原告に対し、平成五年二月の慰安旅行に行かないで、二人で温泉に行こうと言っていない。被告乙山が、葛西臨海公園以外の場所で、原告をホテルに誘ったことは一度もない。

<2> 平成五年一月一四日に被告乙山が入院中の原告を見舞いに行ったのは、勤務時間終了後の午後六時ころのことである。この日、被告乙山が被告会社の社員を叱りつけたことはない。被告乙山は、四〇分ないし一時間程度、原告と世間話をした後、原告にキスをした。キスをしていたのは、二、三分間であり、原告は、「乙山さん興奮してるう。」と言って笑い、被告乙山も、「おれも男じゃ。」「男だから興奮もするよ。」と言った。その後、被告乙山は、原告と一〇ないし一五分話しをし、病院を出た。

<3> 平成五年一月二三日、被告乙山と原告は、ドライブに行く前に喫茶店には入っていない。ドライブの車の中で、原告は、具合が悪いので早く帰りたいということは言わなかった。被告乙山と原告は、駐車場でキスをしたが、これは、両名が自然に行ったものである。被告乙山が原告に対し、「ホテルに行って、ちょっと休憩でもしますか。」と言うと、原告は、「まあ、またにしましょう。」と言うので、体よく断られたなと思い、「二度と、誘わないよ。」と言った。原告を送り届けた後、原告に対し、「コーヒーを一杯立ててくれるか。」という話しをしたことはあるが、「トイレを貸してくれ。」と頼んだことはない。そのときは、原告が「またにして。」と言うので、被告乙山は「じゃあ、もう帰るよ。」と言って帰った。

(2) 思うに、見舞いに行った際の言動については、被告乙山は、同本人尋問において、原告及び被告乙山は、見舞いに行くまで特段の関係にはなく、二人で食事にも行ったことがなかったとしているところ、そのように密接な関係のない間柄でありながら、被告乙山が突然キスをしたことに対し、原告が「乙山さん興奮してるう。」と言って笑い、なんら驚きの態度を示さなかったというのは、いかにも不自然であるが、原告がそのような態度をとったとしても不思議はないと納得できる経緯は、同尋問においてなんら説明されておらず、他にこれを認めるに足りる証拠もない。また、被告乙山本人尋問においては、被告乙山は、最初のうちは、キス以外の行為はしていないと供述しておきながら、後に、乳房にさわったことを認めるに至るなど、供述に一貫性がない。そして、原告及び被告乙山が自然に行ったとするドライブの際のキスも、そのように自然に行ったとしても不思議がないと認めるに足りる原告被告間の関係の変化や、同日の両者の会話ないしその他の事情が、証拠上何ら認められない。さらに、被告乙山が、葛西臨海公園以外の場所で、原告をホテルに誘ったことは一度もないというのは、被告乙山が同本人尋問における供述において、関西の挨拶というのはエッチぽい話しが日常茶飯事であり、女の子に「おい、ちょっと旅行行こうか。」などと言うのは挨拶程度だと思っていたとするのとも、整合していない。加えて、前掲各証拠は、全体的に具体性に乏しく、原告及び被告乙山による行為が断片的に述べられるに過ぎず、経過が不明で不自然な内容となっている。

以上からして、右各証拠部分は、直ちに信用できないので採用しない。

二(ママ) 被告乙山の責任について(争点2)

1 被告らは、被告乙山が、平成五年一月一四日の見舞いの際、原告にキスをしたのは、其の場の雰囲気や成り行きで何となくキスしたものに過ぎず、セクシャル・ハラスメントといえるものではなく、不法行為を構成しないと主張する。しかしながら、原告と被告乙山が、当時までに部下と上司との関係を超えた特段のものとなっていたことを窺わせる事情は存しないし、当日の会話の内容その他の点からしても、原告にキスをするのが、その場の雰囲気や成り行き上自然であると思われる事情も、本件証拠上、見あたらない。

また、被告らの、「職場において多少エッチぽい会話があったとしても、それは通常の良好な職場の環境の雰囲気である。それらの言動を一々セクシャル・ハラスメントとして扱うのでは、職場の雰囲気はぎすぎすしたものとなり、社員同志の情というものが失われた寂しい職場となる。」との主張の趣旨は必ずしも明確ではないものの、被告乙山の話の内容が、社会的にみて許容される範囲を逸脱していないとする趣旨と理解できるが、話の内容それ自体からしても、第三、二(一)(1)において認定したとおり、遠回しではあるが、対価を支払うから愛人になるように求めた内容であったり、当然、肉体関係を結ぶことを前提とすると考えられる温泉旅行への誘いといった内容である上、本件においては、単なる冗談ではなく、実行を予定した話しであると十分推認できるものであるから、これが社会的に見て許容される範囲を逸脱していることは明か(ママ)である。

2 前記認定にかかる被告乙山の原告に対する一連の言動は、<1>肉体関係や交際を求めるといった、主に性に関わる内容であり、<2>その行為態様は、見舞いやドライブの際の行動に明瞭に現われているように、強引且つ執拗で、時間的にも、平成四年四月ないし平成五年四月までの間の長期間に及んでおり、<3>被告乙山は、原告に対し、「好きな人にはのめり込む。」等と述べてはいるものの、原告に対する愛情を感じさせる事情は証拠上全く窺えず、逆に、原告が病み上がりであり、嫌がっているにもかかわらずドライブに連れていき、寒空の中を歩かせるなど、原告の体調や迷惑を顧みず、自己の気の向くままに行っているもので、悪質である。そして、このような言動は、被告乙山が被告会社の会長であり、原告の上司であることから、原告が同被告の要求にあからさまに逆らえないことを利用して行われたものであると認められる。

被告乙山のかかる行為は、原告に対し、性的に激しい不快感を与え、同人の人格を踏みにじるものであり、社会的にみて許容される範囲を明らかに超えているから、不法行為を構成する。

三  被告会社の責任(争点3)について

1  (証拠略)及び被告会社代表者本人尋問の結果及び弁論の全趣旨に前記認定事実を総合すれば、被告乙山は、K社長に経営方法や営業方法についての指導はしていたものの、業務遂行一般については、被告会社やK社長の指揮の下に行っていたことが認められ、実際にも被告乙山が被告会社から賃金カットの処分を受けていることからすれば、被告会社は、実質的に被告乙山に対する指揮監督関係が存したことが認められる。したがって、被告会社は、被告乙山の使用者であるといえる。

また、前記認定のとおり、被告乙山は、勤務時間中、被告会社内部において、原告に対し、第三、二(一)(1)に認定した話をし、原告への見舞いは勤務時間中に行われ、被告会社の業務に関する会話がなされていた他、被告乙山の一連の行為は、被告会社の会長ないし原告の上司としての地位を利用して行われていたものであるから、右一連の言動は、被告会社の職務との密接な関連性が認められ、事業の執行につき行われたと認められる。

2  被告会社は、被告乙山の選任及びその事業の監督につき相当の注意をなしたとするが、主張上も、証拠上もその具体的内容については、明らかにされていないので、理由がない。

3  そうすると、被告会社は、民法七一五条の使用者責任を免れない。

なお、原告は、管理者養成研修離脱後の事項についての不法行為をも問題としているようであるが、これらがそれ自体で独立した不法行為を構成するものではないと解する。

四  原告が被告会社に対する損害賠償請求権を放棄したか否かについて(争点4)

原告が被告会社に対する損害賠償請求権を明示に放棄した事実は本件証拠上認められない。

また、(証拠略)、被告乙山太郎、被告会社代表者本人尋問の結果及び当事者間に争いのない事実を総合すれば、原告は、管理者養成研修中、被告会社に連絡しないまま帰宅したことを契機に被告会社との関係を悪化させていき、被告会社から処分を受けそうになったため、労政に相談し、労働相談担当の青山栄子が仲介役となって、原告・被告ら間における関係調整が開始されたこと、調整が行われている間、被告会社は、原告に対し、平成五年五月二五日に五月分賃金として二一万九三五七円、同年六月一七日に賞与相当分として一七万一〇〇〇円、また同月二五日に慰労金(原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨により、右金員は、慰労金として支払われたと認められる。)として一四万五〇〇〇円を支払い、原告はこれらを受領したこと、原告が被告乙山の直筆による謝罪文の交付を要求したのに対し、被告乙山がこれを拒絶したことが原因で調停書は調印に至らず、労政も、平成五年八月二三日付書面の送付を最後に、仲介の労から手を引いたことがそれぞれ認められるが、以上の事実関係によっても、原告の被告会社に対する損害賠償請求権放棄の意思表示の存在を推認するには足りず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

五  損害額

1  慰謝料

(証拠略)、原告及び被告乙山太郎各本人尋問の結果及び弁論の全趣旨を総合すれば、<1>原告は、被告乙山による一連の言動がなされるまでは、被告会社での仕事を楽しく感じており、他の者からの評価も大変良かったので、原告にとっては良い職場であったこと、<2>原告は、被告乙山による誘いや口説きを不快に感じていたが、同被告が被告会社の会長で、上司であったことから、失礼のないように遠回しに断ることしかできず、歯がゆい思いをしてきたこと、<3>原告は、見舞いにおける出来事があった後、まだ安静が必要で退院許可が下りていなかったにもかかわらず、再び被告乙山から同様の行為をされることをおそれるあまり、退院を決意し、実行するまでに至っていること、<4>原告は、被告乙山の言動について、親しい同僚には打ち明けたものの、退職に追い込まれることをおそれて、上司に相談できず、平成五年二月に労政に電話で相談したものの、労政から、被告会社と交渉するためには、一応会社を辞める覚悟が必要であると言われ、早期の段階での公的な救済も、受けにくい状況であったこと、<5>原告は、被告乙山と二人きりになったり、目を合わせたりしないように努めたり、同僚の女性に、原告が内線で呼ばれて役員室に行き、五分経っても戻らなかったら呼びに来て欲しい旨を依頼したり、本来原告が被告乙山に届けるべき伝票を、書いた本人に持参してもらうこととし、できるだけ会長室に行かないようにするなど、原告がなしうる工夫と努力をはらってきたにもかかわらず、効果はあまりなかったこと、<6>原告は、平成五年四月の段階では、被告乙山に呼ばれると、怖くて涙が出るような精神状態となっていたこと、<7>原告は、管理者養成研修に被告乙山が参加した後、不快感を感じて体調を崩し、無断帰宅をすることとなったものであるが、乙山から電話されないように配慮して被告会社に虚偽の電話番号を届けていたために、原告に連絡を取ろうとした被告会社からの連絡がつかず、こうしたことから被告会社との良好な関係が壊れていって退職するに至っており、結局、原告の退職は、被告乙山による一連の言動が原因となっていること、以上の事実が認められる。

以上からすれば、被告乙山の一連の言動により、原告の被った精神的苦痛は、多大なものであったことが認められる。

なお、本件においては、被告乙山は、被告会社から、原告に対する言動に対し、平成五年七月分から三か月間の月額一〇パーセント賃金カットの処分を受けていること(<証拠・人証略>)及び体調不良が主な原因であるとはいえ、被告乙山は、平成六年一月末日付けで被告会社を退職している(被告乙山本人尋問の結果)といった原告の精神的苦痛を緩和する事情も認められる。

被告乙山の前記認定の行為の態様及び右認定の諸事情を総合考慮すれば、原告の精神的損害に対する慰藉料は、一五〇万円と認めるのが相当である。

また、前記認定のとおり、原告は、慰労金一四万五〇〇〇円をすでに被告会社から受領しており、これは慰謝料の趣旨であると認められるので、この分については、損害額から控除するのが相当である。そうすると、認容すべき慰謝料額は一三五万五〇〇〇円となる。

2  被告らの不法行為ないし使用者責任と相当因果関係のある損害と認められる弁護士費用の額は、事案の内容、認容額及び諸般の事情に照らし、一三万円と認める。

六  よって、原告の請求は、被告らに対し、不法行為に基づく損害賠償として連帯して一四八万五〇〇〇円の支払いを認める限度で理由があるからこれを認容し、その余は理由がないので棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 合田智子)

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